57. エーテルの精/א/エア(“Book T”)
《大まかな意味》“Tabulated Rules”
物質を超えた懸命な努力としてのアイデア、考え、精神性。質問が物理的な日常の出来事に関しての場合は良くなく、実際、非常に良いカードが伴わない限り、愚かさ、ばかげた振る舞い、風変わり、さらには躁病を示すこともある。物質的な物事において、一般的に良い状態というには、理想化や想像し過ぎる。
《PKT》
愚かさ、マニア、突飛、陶酔、一時的精神錯乱、逆上、天邪鬼。
(逆位置)怠慢、欠如、分配、不注意、冷淡、無益、自惚れ。
《カード占いの手引き》“A Manual of Cartomancy”
愚者については既に十分説明されていると考える。全ての完成を意味し、0 から始まった彼のイニシエーションは全ての勘定と全ての生存のタームを成し遂げる。このノーナンバーのカードは全てのナンバーカードを通り抜け、自然人が経験の少ない世界を通り抜けるように、各地点で変化を遂げる。一意専心の世界、連続する達成の世界、そして不屈の努力の賜物のような永遠に続く知恵を受け取ることだ。
《妖精の言葉》“The Quest of the Golden Stairs”
ハーモニーの橋の設計者、金の階段─ハーモニー、神との誓約、神の加護、生、物事の続き:“外面的な印を溶解するには内面的な心の美徳を見つけることです”
《最後のステップ》“Steps to the Crown”
愚かな人は多くの議論を最後まで聞く;普通の感覚の人は途中で切り上げる;賢者ははなから耳を傾けない。
どこへも導かない道がなんと多いことか;袋小路で終わる;成長の真っ只中で突然道を見失い崖っ縁に行き着きびっくりして止まるのだ! そしてほとんどの日々をそうしているのだ! そのような日常の中にあっても、なおいくばくかの敗者復活の道がある:どこへも導かないように見えるということは無限へと辿り着かせるのかも知れないのだ;袋小路の壁は妖精の国への裏門なのかも知れないのだ:そして崖の斜面は、渡船のある、大海へ飛び込む、荒削りで冒険に満ちたステップなのかも知れないのだ。
《絵的な鍵》
【放浪者】 【ロマ】 【旭日旗】 【太陽】 【黄色】 【雪山】 【崖】 【高所】 【バッグ】 【イーグル】 【リース】 【白いバラ】 【赤い羽根】 【高価な杖】 【犬】 【尻尾】 【帽子】 【緑色】 【オレンジ色】
👉 ラベル:愚者
《タロットの切り札》“The Tarot Trumps”
このカードはたいてい雑多に動き歩く男として表され、男は犬に服を喰いちぎられようが吠えられようが無頓着である。これはこのカードを、聖パウロが語る聖なる愚者のヒントを与えられていない、低い角度から見たものである。しかしオーダーパックでは、深い意味を明らかにする試みがなされている。木の下で、沈黙の薔薇と同様、喜びの金色の薔薇である黄色の薔薇を支えている裸の子供。薔薇に手を伸ばしている一方で、灰色の狼を繋いでいる皮ひもをつかんでいるのは、現世の知恵が完全な純粋さの照合として保たれていることを表している。
カラーはペール・イエロー、ペール・ブルー、緑がかった黄色──春の早朝を思い起こさせる
《PKT》
軽い足取りで、まるで地球とその枷(=重力)が彼を引き止める力がほとんどないかのように、きらびやかな出で立ちの一人の若者が、この世界の物凄い高所の間にある絶壁の縁で静止している;彼が見渡しているのは、足下の見通しよりは、むしろ眼前の青い広がり──すなわち空の広さである。彼が 歩く気満々である様子は依然として示されているものの、その瞬間で彼は静止している;彼の犬は依然として飛び跳ねつつある。深い崖に望むこの崖っ縁は何の脅威でもない;まるで天使たちが彼を支えるのを待ち構えているかのような、まるで彼がその高所からそのまま飛んでいけることになるかのような。彼の顔付きは知性と希望的な夢で満されているそれである。彼は片手に薔薇を持ち、もう一方の手には高価な杖を持っていて、右肩にかけたその杖から珍しい刺繍の入った札入れが下がっている。彼は別世界の王子であり、朝の輝きの清々しい空気の中のこの世界を旅行しているところなのである。彼の背後で輝く太陽は、彼がどこからやってきて、いずこに向かっているのか、そして何日も後になって他の道を通ってどのようにして帰還していくのかを、知っているのである。彼は経験を探し求めている霊である。秘密結社の多くの象徴がこのカードに集められており、それによって、高度な正当性の下で、このカードの全ての混乱をその元から(本来の意味に)復旧している。
大オリエント(実はウェイト自身のこと)はその著書『カード魔術の手引』の中で、「秘教の愚者」の暗示を、高度な神託における彼の流儀の一端とする、興味深い話をしているのだが;それは実践するには一般人の才能以上のものを必要とするものかもしれない。我々はこのカードが通常の占いの技法 ではどのような扱いであるかを見てみよう、そうすることで、わかる人には、(大アルカナの)カードが数秘術やプリーテクスト(真の意図を隠すためのこじつけ)のために使われている時、もともと大アルカナは心霊的な賭け事(=占い)の技法における出番はなかったのだということが事実、さもなくばそのくらい明解なものである、ということの一例となるだろう。この(占いの)技法が台頭するようになったその背景については、しかしながら、我々はほとんど知らない。従来の説明によると、愚者が表わすのは、肉体、感覚的な人生、そしてとりわけ皮肉なことに、カードの副題が錬金術士だった時があって、それは最も正常な感覚を失った状態の愚行を描いているという理由であった。